というかやってみた。
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YP-511
ヤマハダイレクトドライブステレオレコードプレーヤーシステム
高校入学と同時に親に買って貰ったオーディオシステムの最後の生き残り。
レコードとともに廃棄!!
時代の流れには勝てず!!!





大慈寺の本堂にあるこの原敬の肖像画は母の大伯父?にあたる上野廣一が描いたもの。明治神宮外苑にある聖徳記念絵画館に行けばもっと観れるかもしれず。収蔵はされていても展示はされていないか?肖像画の大家らしい。最近知る、忘れないうちにメモ。


絶句!!!!!!!!!!!!
若いころからの憧れ。
これからの日本ラグビーを立て直すのは宿沢氏と思っていたのは私だけだろうか? いまP5Nが開催されているのは何かの何かの因縁だろうか?
私が今まで生きてきた中でオーラを感じた二人のうちの一人。それは、仙台駅前のアーケードの中を宿沢氏が歩いているのを見かけたとき。もう一人は冒険家の大場満朗氏、ニューヨークの空港で。
んんんんんんん、、、、、
合掌。


訃報:ラグビー元日本代表監督、宿沢広朗さんが急死
「名ラガーマン」「名指導者」、そして「エリート銀行員」。17日、登山中に急死したラグビーの元日本代表監督で三井住友銀行取締役専務執行役員の宿沢広朗さんは、これらを両立させた稀有な人材だった。55歳での突然の悲報に、関係者は驚きと悲しみに包まれた。
だ円球を追った人生では、選手としても指導者としても光を放った。進学校の埼玉・熊谷高でラグビーを始め、黄金期の早大ラグビー部へ。162センチの小兵ながら、「人一倍の努力」と「的確な判断力」で1年生からレギュラーとなった。俊敏さと知能的プレーが売り物の名SH。日本選手権2連覇は、「小さな天才」宿沢さんの存在なくして、ありえなかった。
89年に請われて日本代表監督に就任すると、5月28日、来日した強豪スコットランドから“歴史的勝利”を挙げる。就任3年目の第2回ワールドカップ(W杯)では、日本を初勝利に導いた。
スコットランド戦は宿沢さんが代表監督に就任して初の国際試合。来日メンバーが発表された席で、宿沢さんが言い放った言葉はあまりにも有名だ。「スコットランドには勝てると思います」。日本の厳しい日差しと高い湿度が外国人には不利になるはず。外国為替のディーラーらしい読みは見事に的中した。
91年W杯のジンバブエ戦前のロッカールームでは、「きょうのこの日のために今までジャパンがやってきたことがあるんだと思う。選ばれた人間は総決算というつもりで戦ってほしい」と言って選手たちを鼓舞した。
知と情熱を兼ね備えたリーダーだった。当時の日本代表だった大八木淳史さんは「指導者として日本ラグビー界に新しい風を吹き込んだ。ラグビーの世界標準化が進むなかで、日本人の体格で通用するラグビーを追求した人だった」と惜しむ。。
銀行マンとしてはロンドン駐在中に独学で英語を身につけ、1日で数億ドルを動かす為替ディーラーとして活躍。00年に49歳の若さで執行役員の座に就き、一時はトップ候補の呼び声も高かった。
代表監督を退いた後は母校早大の監督を務めたほか、日本ラグビー協会の理事、同強化委員長をなどを務め、日本ラグビーの強化に奔走。多忙を極める銀行業務のため、03年10月に強化委員長を退いたが、その後も、講演などを通じてラグビーにかかわり続けた。
上田昭夫・元慶大監督は「2年後輩で、同じSHのポジションだったから親しくして頂いた。実社会とラグビー双方で地歩を築き、世界を見つめていた。日本ラグビーを立て直すのは宿沢さんしかいなかった」。
宿沢さんの早大現役時代の監督で、宿沢さんに代表監督就任を要請した日比野弘・元同協会副会長の第一声は「信じられない」。かけがえのない人材を失ったショックに、しばし絶句した。
▽元日本代表監督、元同大ラグビー部監督・岡仁詩さん 宿沢君を初めてジャパンに召集したのが、当時代表監督だった私。私が体を壊した時も病院まで見舞いに来てくれたり、懇意にしていただけに訃報を聞いて本当にびっくりしている。年齢も若く、優れた指導力を発揮してくれていただけに、彼の死は日本のラグビー界にとっても大きな損失だ。
毎日新聞 2006年6月18日 0時45分 (最終更新時間 6月18日 1時38分)
元日本代表監督の宿沢氏急死、日本ラグビー界に大きな損失
日本ラグビー界が大きな財産を失った。
元日本代表監督で三井住友銀行取締役専務執行役員の宿沢広朗(しゅくざわ・ひろあき)氏=写真=が17日午後零時53分、心筋梗塞(こうそく)のため前橋市の群馬大医学部付属病院で死去した。55歳だった。同銀行によると、登山途中に倒れて同病院に収容されていた。
同氏は埼玉・熊谷高から早大ラグビー部へ進み、正確な判断力とスピード豊かなパスさばきで、70年代前半の早大黄金時代の中心選手として活躍。高い戦術眼を買われて、89年に39歳の若さで日本代表監督に就任した。監督初陣のスコットランド代表戦で、日本ラグビー史上初の国際ラグビーボード(IRB)創設8協会の1チームから大金星を挙げる快挙を果たし、91年まで監督を務めた。
監督初陣のスコットランド代表戦で、日本ラグビー史上初めてIRB創設協会の1チームから大金星。万感の万歳
91年の第2回ワールドカップ(W杯)では予選リーグのジンバブエ戦に52−8で快勝。日本のW杯史上、唯一の勝利はいまもさんぜんと輝く。その後、向井昭吾・日本代表監督時代には、強化委員長に就任。日本ラグビーのプロ化に着手するなど、時流を見逃さない改革に取り組んだ。また、サンケイスポーツでの評論も評判を呼んだ。
勤務する三井住友銀行では主に市場部門を歩み、執行理事を務めるなど要職に。同部門の収益を大きく拡大させ、その手腕を買われ経営幹部として将来を嘱望されていた。業務のため、日本協会の理事などからは離れていたが、普及、強化と難題を抱える今後の日本ラグビー界を支える存在としても期待されていた。
◆同じSH、宿沢監督のもとでW杯選手だった堀越正巳・現立正大監督
「仲人をしていただいた方なので、残念。仕事の忙しさもあり、すべてのことを急ぎすぎたのでは…。ご冥福をお祈りします」
的確な判断、素早いパスワーク。早大では1年からSHでレギュラーをつかんだ
★気さくで飾らない人物
記者にとって、宿沢さんはまさにスーパーヒーローだった。小学生時代、SHとして大活躍する宿沢さんの姿に、早大へのあこがれを募らせた。89年の日本代表監督就任からスコットランド戦の歴史的勝利、91年W杯での初勝利など、担当記者として「宿沢ジャパン」に密着できたことは、今でも大きな財産だと思っている。
学園紛争がなければ東大に入学していたはずの明晰な頭脳で、ラグビーについてち密に、論理的に語ってくれた。その半面、団長として遠征した89年のサモアでは、現地の人との交歓会で誘われるまま、地元のダンスを喜々として踊るなど気さくで飾らない人柄も愛された。
プロ化の流れの中で道を模索する日本ラグビーを、まだまだかじ取りしていってもらいたかったのに、あまりに早すぎる訃報だった。謹んでご冥福(めいふく)をお祈りしたい。
(田中浩・運動部編集委員、84〜93年にラグビー担当)
■宿沢 広朗(しゅくざわ・ひろあき)
1950(昭和25)年9月1日、東京・日野市生まれ。埼玉・熊谷高1年からラグビーを始める。早大では1年からSHでレギュラー。70、71年度に大学選手権、日本選手権を連覇。73年のウェールズ戦で日本代表初キャップを獲得し、通算3キャップ。89年に日本代表監督に就任。初戦でスコットランドから金星を奪ったほか、91年の第2回W杯でもジンバブエを破り、日本のW杯初勝利を挙げた。
▼葬儀・告別式
22日午前11時から東京都中央区築地3の15の1、築地本願寺本堂で。喪主は妻洋子(ようこ)さん。